入所から在宅に方針転換した理由

施設長 李 在一

そもそも入所施設が中心であった当法人がなぜパン工場等々の在宅支援に取り組んだのか、その理由について改めて述べておきたい。

それは私が施設長に就任した2011年の翌年、施設の近隣で起きた事件が発端であった。事件の概要は60代の母親が30代の娘(知的障がい者)の首を絞め殺すという悲惨なものであった。かつて「青い芝の会」の「母よ殺すな」という著書を読んだことがある。当時は全国平均すると毎年100名ほどの障がい者を母親が殺す事件が起きており、事件数の増減はあるものの基本的にそういった類の事件は現在まで及んでいるという。こうした衝撃的な現実について、当施設の保護者たちにたずねたところ驚いたことに多くの保護者たちにとって十分に理解できると云う。なぜなら我が子が幼い頃、いっそ二人で死のうと考えたことが一度や二度ではないというのだ。これは古くて新しい問題だ。そして解決されなければならない問題だ。

さて、私が2012年に遭遇した事件からさかのぼること5年ほど前の2007年のことだ。入所利用者が自転車で20分ほどの近在の農家に仕事に行っていた。その通勤途上、櫛田川の土手で立小便をしたところ、スクールゾーンが一部重なっているとのことからそれを目撃した地域の人から近くの学校に通報された。それは「不審者通報」として処理され、またたくまにその地域の1万7千世帯に回覧板でもって通知された。それは施設運営者である私たちが関係者を謝罪してまわっても、「不審者」にされた彼に対する反発は最悪の形となって表れた。まず彼が働いていた農家の経営者が地域の公民館に呼び出された。そこでは自治会長をはじめ地域のPTAの保護者たちが総勢20名ほど集まっており、利用者である彼を辞めさせるように追及を受けたという。なかには農協に作物を納めていることから、農協の権力者だという人物からは「もし辞めさせなければ地域でメシが食えんようにしたる」といったものもあったという。他方、地域の人たちがその農家の職場で働いている場所まで複数でやってきて、利用者本人を罵倒していくことも何度かあったと云う。「うちの家がつぶされる」と農家の経営者からは悲鳴があがり「たすけてほしい」と泣きつかれた。その結果、一時的に利用者の通勤を停止せざるをえなかった。本人は重労働にやっと体が慣れた1か月がすぎた頃だった。突然仕事に行けなくなったことに「仕事がしたいんや」と私たち施設の職員に泣きながらすがる彼の姿は、理不尽を一身に受けた者としての切ない姿であった。

私はこれを許してはならない差別事件だと認識した。当時私は副園長の職制であったが、これを正すためにできる可能なことはすべて実施しようと試みた。たとえば三重県内の人権に関わる84か所の公的機関に事件の詳細報告及び人権救済の申し入れを実施した。同時に法務局の人権擁護局にも弁護士を通じて人権救済を申し入れた。結論からいうと、結果は「オール無視」であった。三重県障がい福祉課にも申し入れをしていたところ、当時、Y室長と偶然に会った際に、この件について近在の学校等で私に障がい者の人権啓発のため講師をしてもらえるならその仲介の労を取るのはやぶさかではないと指摘された。私は反発を感じつつ県の室長にこう言った。
「知的障がい者の人権の啓発をしなければならないのは行政の責任やないですか。なのに一民間人でなおかつ職務分掌以外の仕事を私がしなければならないというのはどういう意味ですか?」と問うた。室長は「そんなことを言うならもう知らない」とそれきりだった。

行政の対応はそんな程度だろうとあながち予測もできたが、最も私がショックを受けたのは、この事件に対する同じ施設で働く支援員(同僚たち)の反応だった。
本人である利用者は「仕事がしたい」と数日間泣き続けた。職員らの大半のアンケートによると、「本人は可哀そうであるが、農家がつぶされる危機にあるから仕方ない。また親としての立場であるなら地域の人々の行動も理解できる」というものであった。

「誰のための、何のための障がい者施設なのか」と強い憤りと疑問が私には残った。いわゆる『いざというとき』には、施設職員といえども健常者側の立場に立ってしまうことを痛感させられた。例外は当時の理事長であった林氏が「李さんの気のすむまでやったらええ」と言っていた点だけであるが、当然のことながら私の気が云々の次元の話ではない。だが施設内でこの件に対して困ったような顔をしているだけの同僚たちを横目に見ながらも、公的機関を相手に私は不毛なやり取りで2年ほどもがいていた。だが当時の私には職務分掌を越えた範囲で展開をする気はなかった。できる範囲では一生懸命やるが、それ以上は無理というより、むしろそもそも「できる範囲」で解決されるべきだと考えていた。もし「できる範囲」で解決されないのであれば、そういう場面に立たされた当事者たちにとって解決ができないことを意味している。さらに行政が唱えている共生社会というのはまるっきり絵に描いた餅にすぎないことになってしまう。だから社会的役割を担っている立場の誰かが利用者の受けた人権侵害の救済に共鳴してくれるはずだと考えていた。私のイメージする解決は公的機関からどのような形であれ、利用者が受けた排除は差別に該当するというジャッジを引き出すことであった。だから84か所に配布した報告書の最後は、具体的に何かを求めるのではなく次の言葉で締めくくった。

解決にむけて
「松阪市人権のまちづくり条例」(三重県もほぼ同じ内容の条例がある)の第3条(市の責務)には、「松阪市(以下「市」といいます。)は、第1条の目的を達成するため、市民の人権の擁護、救済の取組みや人権意識の高揚をはかる施策を積極的に策定し、実施する責務を有します」と条例では示されています。私たちが最大に訴え、求めたい点は、前記文中の「救済の取組み」です。利用者は人権において、同じ人間であり、同じように尊厳のある一人の
人間です。また、このような事件を教訓として、障がいがある人たちが、松阪市の一市民として安心して心豊かに地域生活を営むことができるよう、啓発活動に努めていただきたく願います。
 どうか本書の趣旨を踏まえていただき、関係者各位におかれましては、ご協力・ご意見・ご配慮のほどを切に願う次第です。」

最終的に私はもがくだけもがいてみたが、施設の内外共に反応がなかった。それは「私の孤立」ではなく、障がい者の人権に関わる問題に対する「社会の強い無関心」を具体的に示すものであった。

やがてそこに冒頭で記述した2012年の事件がやってきたのである。

母親に首を絞め殺された娘は、日中は家の中に引きこもさせられていて、夜に集落を徘徊していたという。その話を聞いて私は夜に同じようにその集落を何度か実際に歩いてみた。農村の集落はあちこちに狭い路地があり、娘は夜にどんな気持ちで歩いていたのか、それぞれの窓辺の薄明りに何を考えただろう。あるいは徘徊する娘を時にはむかえに母親が集落の路地を歩くこともあったであろう。曲がり角をまがると当施設が見えた。月夜に照らされ淡い灯りをともした施設は本当にシャガールの絵に出てくるように青く美しかった。母親はその風景をどんな気持ちでながめていたのか、それを考えると私は何度もいたたまれなくなった。その集落も施設建設時には執拗な反対があったので、母親が肩身の狭い思いをしていたのは容易に想像できる。だが殺さねばならぬほどであったのならどうして施設に逃げ込んでくれなかったのか、それが無念で悔やまれてならない。私はその理由について考え続けた。その母親にかかっていた圧力はどのようなものであったのか。ただひとつわかることはおそらくそこにどうしようもない隔絶した孤立があったということである。


さらに私には後悔の日が続いた。拠点施設として母娘の存在をわかっていたなら助けられたのではないか。特に、集落から次第に事件の痕跡が消されていくのに反して私は自責の念に苛まれた。毎朝、車で通勤する際、施設が近づくとハンドルの右側に事件の家が視界に映る。最初は黄色いテープでおおわれていた家が、事件のテープがとられて家が壊された。やがてその家の跡地をブルドーサーで平にしてしまい事件の痕跡は視界から完全に消されていった。春になるとその土地に菜の花が植えられ、菜の花が風にゆれる風景は美しい農村の風景以外の何物でもない。それを見ると、私はなおさら激しい自責の念に苛まれることになる。

私の自責の念とは、地域で排除された2007年の利用者に対する問題とつながっている。それは「できる範囲」を越えてやらねば、この社会では絶対に解決しない問題であるということだ。職務分掌や社会的役割といった「できる範囲」にこだわっていれば、自ずからリミッター(自己制御)をつくることになり解決に手がとどくこともなくどんどん広がり「解決しない問題」として社会に蔓延していくだろう。

福祉で働く私たち、いやあえて私でいい。私は近在で娘を殺してしまった親子に改めて新たに出会わなければならない。そのためにはできることだけではなく、最初から計算の上で予定を立てるようなこと以外のことも積極的にやっていこうと決意した。

この決意が入所から在宅に舵をきった事業展開の動機であり理由である。

2019年3月15日掲載